咀嚼する日々

先日、名古屋にてイールドワークとひもトレ、韓氏意拳の講座に二日間参加してきました。

台風で交通は乱れ、外の慌ただしい様子が嘘のように穏やかに、ハプニングも流れの一つとして、調和の場を目の前で見せていただき、体験することができたことに新鮮な驚きと気づきがたくさんあり、言語化しないままにしばらくこの二日間を何度も反芻していた。

韓氏意拳、ひもトレ、そしてイールドワークに根底で繋がっている共通の認識は

「全てがある」ということだった。

身体には必要なこと全てが既にあり、ワークではそれをただ見つけていく。

私たちは日常の中で、つい何かが自分に足りていない「不足感」を抱えているような気がしている。
街に出て目にする社会の在り方には不足感を補うべく「もっと、もっと」と高みを目指し、前進し
必死にまるで「ここではないどこか」へ急き立てるような空気を感じてしまう。

飢餓感すら感じさせる焦燥感に飲まれる時、自分の身体や存在はまるで存在し「ない」かのように空虚なのではないか。

その地点から動く時、私たちは焦りと不安から起きていない問題をまるで「ある」かのように取り扱い、現実に表現してしまう。

しかし、必要なものは全て今この時点、ここに「ある」という視点に立った時、行動や思考の起点になるのはその全てが備わっている自分の身体だ。

そこに現れる行動や思考は、既に自分の中にあるものを拡げていく、差し出し表現していく、循環のアクションになる。

「ある」ものは社会の基準に合わせた数値で表すような能力というよりは、生き物としての生きる力といえるかもしれない。

韓氏意拳では型がない動きを自分の身体の感覚を感じきりながら動いていく。

少しでも思考のコントロールによって動かされた動作は動きが制限され、有機体としての身体の可能性を閉ざされてしまうのはもったいないと思う。

練習しながらふとした瞬間、思考から手放された身体の自然な軌道に乗った動きになった時、私は「私がない」状態になった。
演劇をしている方の感覚はこういうものかもしれないとその時思った。

前の話とは文字にすると逆行するのだが、身体の中が空洞になり、我の不在となった状態がとても心地よかった。

意思から放たれた身体は自由で、クリアで、清々しいものだった。

その動きができた時、私の脳は処理できずにあえていうならアハ体験をした時のように新しい回路が繋がった感覚がした。

身体が実は動けることを体験の上で知り、信頼できると本当の意味での自己肯定感が身についてくる。

私たちの身体は、なんて未知数な頼もしさを教えてくれるのだろう。

 

先日、長い間セッションをさせていただいている方からの卒業のメッセージをいただいた。
私の我は正直なところ寂しさを感じないわけではなかったが、その方はセッションを受けながらずっとご自分の身体を探求し、身体の内側を感じる目が回を重ねるごとに目覚めていくのを感じ、その方の進む道を応援したいと思う気持ちが湧いてきた。
セラピスト冥利に尽きることです。伝えてくださってありがとうございました。

みなさまにはセッションの後、どんどん身体を動かし、その可能性を見つけていく挑戦をぜひしてもらえたらと願います。

きっと新しい身体の可能性を見つけた時のアハ体験はキラキラと輝いているだろうから。

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