7月のご予約

7月のご予約を承っております。

静岡のご予約について、早めにご連絡いただきましてありがたく思っています。

3月の春分の日に静岡から名古屋へ居を移し二拠点活動を始めました。

静岡のウソのように澄んだ青い空、のどかなゆとりと愛知のガツンと向き合うしなやかな強さを、身体の中に新しく感じる度にこのような循環の形があるのだと体験させていただいています。

自分にとって安心できる場、ちょうどよくしっくりくる心地よさの中で思いきり息をしていると今の自分にとって本当のことしか出てこない。

だれかやどこかの常識に自分を当てはめることがもうできずに、自分の呼吸と一歩一歩歩く自分の足の感覚を感じています。

カウンセリングを勉強した時にスキルだけ学びながらずっと気になっていたカールロジャーズの自己実現のプロセスに喫茶店で、つい掌で机を叩きたくなるほどボディワークも心理療法もたどり着くのはやっぱりここなのかと代わりに膝を打ちました。

『存在の自由』

神様や家族、尊敬する誰かに認めてもらうよりも、誰よりも自分で自分を認められるその道のり。

そうして自分で自分を認められた時、世界に迎え入れられる感覚が生まれてくる。

赤丸が静岡、青丸が名古屋のセッション日です。
お時間の枠はグーグルカレンダーをご覧ください。枠はあくまで目安ですので、お問い合わせいただきましたら前後にずらすことは可能です。

名古屋でのセッション

名古屋市内でクラニオセイクラルを中心にしたセッションを始めました 。

引越しは出産と同レベルのストレスを感じるライフイベント、といわれるのを見て(エビデンスは存じない)、いくら引越し慣れているとはいえまずは生活に慣れること、今受けてくださっているお客様第一に、と自分としては慎重に動いていました。

 


「自分を愛する」とはどういうことか。

自分にご褒美をあげたり、自己犠牲をせずに自分を尊重する。いろいろなことが昨今言われています。

自分のこころの声を聴こうとすると、欲求から歪んで生まれた声だったり、身体の中に居着いた誰かの声に耳を傾けてしまったことが私自身、自分を大事にしようと心がけてやってしまったことがありました。

自分の本心から出ている声はなかなか聴きとりづらい。

なのでカウンセリングなどでは本当の自分の望みを自分の中に潜って探す旅に出たりします。

「自分を愛する」ということの一つに 「自分の神経系のケアをする」という方法もあると思います。

こころの不機嫌とからだの不調はセットになりやすい。
ネガティブな考えが湧いて止まらない時は単にお腹が空いていただけだったり、やけに心が狭いと思ったら頭が痛かったり。
お腹を満たしたり頭痛をケアしてあげると、さっきまでのグルグルはなんだったんだろう、なんてことはよくあったりするもので、
神経系がクリアだと、不調と不機嫌の混ざっているところも見つけやすくなります。
そしてグルグルしている時には見つけられなかった光が降りてきたり、それまで問題と感じていたことが問題としなくてもよくなったり。

だんだん、自分の中がクリアになっていくと自分のご機嫌を自分で取ることもずっと楽になりますし、自分を確かに保てることは本当の意味での自己肯定感を育ててくれるとも感じます。

街の中は刺激がほんとうにたくさんあって、敏感に感覚を鈍らせて毎日の波を乗り切っている方が多いように感じます。
そして、クラニオセイクラルなどのような繊細なタッチを無意識のうちに、敏感にお身体でキャッチされる方も多くいらっしゃいます。

脳が休まり静かに自分の身体の中に戻ることは、明日へ踏み出す一歩を確かなものにしてくれます 。

場所は、地下鉄覚王山駅から徒歩5分。
タイマッサージサロン・changpinちゃんのご厚意でしばらく間借りさせていただくことになりました。

アーティストでもあるオーナーらしいレトロでキュートな空間です。

名古屋でのセッションはベッドセッションとカウンセリングを承ります。

咀嚼する日々

先日、名古屋にてイールドワークとひもトレ、韓氏意拳の講座に二日間参加してきました。

台風で交通は乱れ、外の慌ただしい様子が嘘のように穏やかに、ハプニングも流れの一つとして、調和の場を目の前で見せていただき、体験することができたことに新鮮な驚きと気づきがたくさんあり、言語化しないままにしばらくこの二日間を何度も反芻していた。

韓氏意拳、ひもトレ、そしてイールドワークに根底で繋がっている共通の認識は

「全てがある」ということだった。

身体には必要なこと全てが既にあり、ワークではそれをただ見つけていく。

私たちは日常の中で、つい何かが自分に足りていない「不足感」を抱えているような気がしている。
街に出て目にする社会の在り方には不足感を補うべく「もっと、もっと」と高みを目指し、前進し
必死にまるで「ここではないどこか」へ急き立てるような空気を感じてしまう。

飢餓感すら感じさせる焦燥感に飲まれる時、自分の身体や存在はまるで存在し「ない」かのように空虚なのではないか。

その地点から動く時、私たちは焦りと不安から起きていない問題をまるで「ある」かのように取り扱い、現実に表現してしまう。

しかし、必要なものは全て今この時点、ここに「ある」という視点に立った時、行動や思考の起点になるのはその全てが備わっている自分の身体だ。

そこに現れる行動や思考は、既に自分の中にあるものを拡げていく、差し出し表現していく、循環のアクションになる。

「ある」ものは社会の基準に合わせた数値で表すような能力というよりは、生き物としての生きる力といえるかもしれない。

韓氏意拳では型がない動きを自分の身体の感覚を感じきりながら動いていく。

少しでも思考のコントロールによって動かされた動作は動きが制限され、有機体としての身体の可能性を閉ざされてしまうのはもったいないと思う。

練習しながらふとした瞬間、思考から手放された身体の自然な軌道に乗った動きになった時、私は「私がない」状態になった。
演劇をしている方の感覚はこういうものかもしれないとその時思った。

前の話とは文字にすると逆行するのだが、身体の中が空洞になり、我の不在となった状態がとても心地よかった。

意思から放たれた身体は自由で、クリアで、清々しいものだった。

その動きができた時、私の脳は処理できずにあえていうならアハ体験をした時のように新しい回路が繋がった感覚がした。

身体が実は動けることを体験の上で知り、信頼できると本当の意味での自己肯定感が身についてくる。

私たちの身体は、なんて未知数な頼もしさを教えてくれるのだろう。

 

先日、長い間セッションをさせていただいている方からの卒業のメッセージをいただいた。
私の我は正直なところ寂しさを感じないわけではなかったが、その方はセッションを受けながらずっとご自分の身体を探求し、身体の内側を感じる目が回を重ねるごとに目覚めていくのを感じ、その方の進む道を応援したいと思う気持ちが湧いてきた。
セラピスト冥利に尽きることです。伝えてくださってありがとうございました。

みなさまにはセッションの後、どんどん身体を動かし、その可能性を見つけていく挑戦をぜひしてもらえたらと願います。

きっと新しい身体の可能性を見つけた時のアハ体験はキラキラと輝いているだろうから。