徒然

暑い暑い夏が去り、秋がきたとわくわくしていたら急に冬の足音が聞こえてきました。

カメムシが各地で大量発生しているニュースを読みました。カメムシが大量発生した年は大雪が降るそうです。

以前、飛騨高山のお寺で瞑想合宿に参加した時はまさにカメムシが大量発生。

カメムシがブンブン飛び回る中での瞑想研修でした(笑)

瞑想という普段の意識の層とは違うところにいたからなのか、場も山の奥の奥、熊鈴が必要なお寺でしたので今思えば場の持つ力を感じられる体験でした。

部屋の方々に置いてあるペットボトルに吸い寄せられていくカメムシたちが印象に残っています。

*

生活の中で起きたことから気付いて自分の枠を整え直す

知らず知らずのうちに自分のキャパシティから溢れていたものを収める

余白を作る

日々の出来事はいつも必要なものを教えてくれます

そのことに快く気づけるような
ご自分で居られるためにセッションを役立てていただければと思います
 

日々訪れる最善の計らいを受け取れますように

朝晩冷えてきましたので温かくしてお過ごしください。

10月のスケジュール

タイトルを書いてもう10月なのかと改めて驚いていた

先週くらいまでは蒸し暑くてまだ袖のない服を着ていたはずなのに、半袖を通り越して長袖になってしまった。

夏の日差しで焼けてパサパサだった髪と肌が汗をかかなくなったら急にしっとりしてきた、と思ったら空気が乾燥しだしてセッションルームに加湿器はいるかどうかを考えている。

とにかく駆け足で帳尻合わせのように次の季節への引っ越しが行われている。

今年の夏は本当に暑かった。「危ないですね」と声を掛け合った。

だけれどもうそんな暑さのことは忘れていて、南瓜やにんじんの煮物に身体が喜ぶ。

 

自由とはなんだろう。

何でもない時に、音楽に身を委ねることができることなのかもしれない。

躰にあいた二つの穴からこの世界を覗く時

今朝、コーヒーを淹れるとフィルターの中の挽いた粉がなだらかな坂を作っていて、私はそういえばまだ砂丘を見たことがないけれど、こんな感じなのかしらと思うくらいに美しかった。

共に響きあう=共に生きる

ーテキストがない、動画や写真撮影もない、そもそも正解の設定がないー

あぐらを組んだり寝転んだり壁にもたれたり。参加者は楽な姿勢で、だが目は真剣に話を聞いている。

私もあぐらを組んだり、時にゆらゆら揺れたりしながらできるだけ疲れない姿勢でそこで出会う言葉、体験、空気を一瞬だって見逃したくない気持ちと、思考さっぱりオフにして空間に溶け込んでいたい気持ちが時々入れ替わりながらその風景の一部分であることを味わっていた。

探求者としての引き出しを棚卸しをする、そんな空間に9月の初めに八ヶ岳で3日間。


「身体とベクトル平衡体の共鳴テンセグリティ®︎による実験」

質問を何度かしようと思ったけれど、あえて黙って参加者の意見や講師の話を聞いていると自分の持ったはじめの質問が段々深まっていく。
自分が持った疑問の核の部分、その疑問を持つことで本当は何を知りたいのか、どこに結びつけたいのか。
帰った後にどんな資料を探そうか。
やがて、自分が何を大事にしたいのか、にたどり着く。

話を聞いているうちに、自分のテーマに関する気づきがパズルのようにハマっていくのを頭の後ろで感じていると、知らぬ間にぼやけていた視界のピントが合わさり、自分の輪郭がクリアにはっきりするという体験

 

出来上がったベクトル平衡体モデルを持っている
知らず知らずのうちにニコニコしている自分。

これが生き物としてのデフォルトの状態なのだ。

4mのテンセグリティドーム
重力からくる引き合う力と身体の張力の伸び縮みする力はすぐさま手を結び、ドームの中にいる自分の中に湧いてくるものは余計な感情や思考をくっつけないありのままのもの
ドームから出るとやがてまたかつての自分の思考の癖が見えてくる。眺める自分の意識は閑かーー

床に寝そべると、生命の大勢の中の一つのピースとしての自分の輪郭

ドームに一歩入った時の身体の中が沸き立つような至福状態もよいけれど、私は静かなこの感じで居たい。

 

ベクトル平衡体を使ったイールドのセッション

今年に学び始めたイールド。たとえ1日の講座でのショートなセッションであっても毎回課題が見つかる。

名古屋に帰ってきてセッションをしている時に今回はその課題への材料を見つけた。
捏ねて眺めて形にしていく。

夕食(とても美味しかった)の後、生徒が先生の周りに集まり話に耳を傾ける

縄文や先住民が主な土地の主として居住していた時代。
大切なことはこのように語られ伝えられていたのではないかな、とその時の光景を思い出す度に思う。

この3日間で感じたことを話したら、
「そんな状態にいることができたら、戦争も犯罪もなくなってしまう」
と鋭いコメントを頂いた。

整っている場では出っぱったり、凹んだりすることはなく

それぞれが補い合って、その意識すらなくて。

八ヶ岳で過ごした3日間は、調和という感覚そのものだったと思います。

「背骨はウソをつかない」

先日、ソマティック・エナジェティクスのグループセッションを受けに大阪へ。

ヨーガの実践者でカイロプラクティクスのドクターであるマイケル・マクブライド氏のホールドするセッション会場は、前日からグループセッションを行なっていたことも影響しているようで始まる前から大きなうねりと静けさに満ちていた。

こんな場をホールドする身体の中はどうなっているのだろう、身体の中を広げてみると大きな空間を感じた。

セッションはずっと目を瞑っていたので詳しいことはわからないが、数名のソマティックエナジェティックスのプラクティショナーの方たちと共にマイケルがベッドを移動しながらコンタクトしていたようです。

セッション中、何も考えていないし思い出してもいない。空間に共鳴して蛇口をひねったように目から鼻から出ていく感情を伴わない水分たち。

 

体勢を変える度に頭や身体が軽くなっていることに気づいた。

身体の中はマイケルやプラクティショナーの方に触れてもらう度にモードが変わったようにうねり方が変わっていく。
骨盤が前後に歩くような動きをしたり、うつ伏せの時に胸椎周りがどろっと溶けて脱力し左腕がくるんと裏返ったりと普段の身体に染み付いた癖が解けていく。

周りからは時折、歌うようにエネルギーを解放している声や嗚咽が聞こえてくる。

空間のうねりのモードが変わる度にまるで波のように身体の表面からじわじわ響いてくる。

こんな波が交差し響き合う場でプラクティショナーの方たちは飲まれることなくセッションを進めていく。なんてすごいなあと思う。

 

そうして場に溶けているのだろう。「場に馴染む」というのはその場のエネルギーを身体に迎え入れることとも思う。セッションが始まる前は目が合わなかった(波長が違っていた)、マイケルと目を合わせお互いに微笑んでこの場がFeel goodであることを伝えられた。

呼吸に意識が開いている時、思考は全く静かで穏やかに身体の実況をしてくれていて、身体を大きくはみ出てあらぬ方向に思考を羽ばたかせたりせずに、実況からすぐ隣にあるさりげない気づきへ促してくれる。

何箇所か背骨をカイロ的に矯正してもらい、身体の中も横隔膜を中心に大きく動いた実感があった。
空気を押し出すより吸い込むように声が出た。声量はないかもしれないがいい感じ。

セッション後の総仕上げにマイケルから
「今、マインドからハートへの旅をしているんだね。信頼して、呼吸して。」
とメッセージをもらった。

ちょうどセッション中の気付きやここ最近の散らばっていたテーマが集められ束ねてもらったかのようだった。
身体はしっかりそのテーマを宿して声を発していたのだということ、マイケルがそれをキャッチして私に伝えてくれたこと(そしてそこには「大丈夫」という応援も)を思うと胸が温かくなる。

そして
「君の背骨は十分に熟して準備ができていた」
と文字どおり背中を押してもらえた。

心身の統合、というテーマと向き合う中で初めは驚く不思議と思えるような体験や、師たちと出会わせてもらってきた。

そのうちそうそう体験には驚かなくなったり、出会いを必然と思えるようになった。

逆に驚くようになったのは、ずっと一緒に生きてきたと思っていた自分の中に新しい一面を見つけた時だ。

その度に新しい扉を見つけたように何かが動き出すことを繰り返している。

朝のプラクティスをヴィパサナ瞑想からアーナパーナ瞑想に変えた。
ヴィパサナのプラクティスでは身体の変化を観察していた。
アーナパーナをプラクティスすることで、思考を休ませることに具体的に踏み出してみようと思う。
思考はなくならないし悪でもない。いつかは必要とされ確かに守ってくれた過去があるかもしれない。
今は歩むプロセスの上で思考に対する比重は軽くなり、それにともなうケアが必要なのだろう。
集中力のトレーニングにもなり、過集中や注意力分散が改善したらいいなあという期待も添えて。

 

来週の月曜から静岡です。

セッションを受けてくださった方から
「身体の変化は内面の変化による結果だと気付きます。」
とコメントをいただきました。

ソマティカでも大きな柱である「身体と心のつながり」について。
もし「おや、これはもしや?」とご自分の体験の中にそんな片鱗を見つけられたら、ぜひ手に取りさらなる体験へとつなげていただけたらと思います。

許可をいただきシェアします。

7月のご予約

7月のご予約を承っております。

静岡のご予約について、早めにご連絡いただきましてありがたく思っています。

3月の春分の日に静岡から名古屋へ居を移し二拠点活動を始めました。

静岡のウソのように澄んだ青い空、のどかなゆとりと愛知のガツンと向き合うしなやかな強さを、身体の中に新しく感じる度にこのような循環の形があるのだと体験させていただいています。

自分にとって安心できる場、ちょうどよくしっくりくる心地よさの中で思いきり息をしていると今の自分にとって本当のことしか出てこない。

だれかやどこかの常識に自分を当てはめることがもうできずに、自分の呼吸と一歩一歩歩く自分の足の感覚を感じています。

カウンセリングを勉強した時にスキルだけ学びながらずっと気になっていたカールロジャーズの自己実現のプロセスに喫茶店で、つい掌で机を叩きたくなるほどボディワークも心理療法もたどり着くのはやっぱりここなのかと代わりに膝を打ちました。

『存在の自由』

神様や家族、尊敬する誰かに認めてもらうよりも、誰よりも自分で自分を認められるその道のり。

そうして自分で自分を認められた時、世界に迎え入れられる感覚が生まれてくる。

赤丸が静岡、青丸が名古屋のセッション日です。
お時間の枠はグーグルカレンダーをご覧ください。枠はあくまで目安ですので、お問い合わせいただきましたら前後にずらすことは可能です。

咀嚼する日々

先日、名古屋にてイールドワークとひもトレ、韓氏意拳の講座に二日間参加してきました。

台風で交通は乱れ、外の慌ただしい様子が嘘のように穏やかに、ハプニングも流れの一つとして、調和の場を目の前で見せていただき、体験することができたことに新鮮な驚きと気づきがたくさんあり、言語化しないままにしばらくこの二日間を何度も反芻していた。

韓氏意拳、ひもトレ、そしてイールドワークに根底で繋がっている共通の認識は

「全てがある」ということだった。

身体には必要なこと全てが既にあり、ワークではそれをただ見つけていく。

私たちは日常の中で、つい何かが自分に足りていない「不足感」を抱えているような気がしている。
街に出て目にする社会の在り方には不足感を補うべく「もっと、もっと」と高みを目指し、前進し
必死にまるで「ここではないどこか」へ急き立てるような空気を感じてしまう。

飢餓感すら感じさせる焦燥感に飲まれる時、自分の身体や存在はまるで存在し「ない」かのように空虚なのではないか。

その地点から動く時、私たちは焦りと不安から起きていない問題をまるで「ある」かのように取り扱い、現実に表現してしまう。

しかし、必要なものは全て今この時点、ここに「ある」という視点に立った時、行動や思考の起点になるのはその全てが備わっている自分の身体だ。

そこに現れる行動や思考は、既に自分の中にあるものを拡げていく、差し出し表現していく、循環のアクションになる。

「ある」ものは社会の基準に合わせた数値で表すような能力というよりは、生き物としての生きる力といえるかもしれない。

韓氏意拳では型がない動きを自分の身体の感覚を感じきりながら動いていく。

少しでも思考のコントロールによって動かされた動作は動きが制限され、有機体としての身体の可能性を閉ざされてしまうのはもったいないと思う。

練習しながらふとした瞬間、思考から手放された身体の自然な軌道に乗った動きになった時、私は「私がない」状態になった。
演劇をしている方の感覚はこういうものかもしれないとその時思った。

前の話とは文字にすると逆行するのだが、身体の中が空洞になり、我の不在となった状態がとても心地よかった。

意思から放たれた身体は自由で、クリアで、清々しいものだった。

その動きができた時、私の脳は処理できずにあえていうならアハ体験をした時のように新しい回路が繋がった感覚がした。

身体が実は動けることを体験の上で知り、信頼できると本当の意味での自己肯定感が身についてくる。

私たちの身体は、なんて未知数な頼もしさを教えてくれるのだろう。

 

先日、長い間セッションをさせていただいている方からの卒業のメッセージをいただいた。
私の我は正直なところ寂しさを感じないわけではなかったが、その方はセッションを受けながらずっとご自分の身体を探求し、身体の内側を感じる目が回を重ねるごとに目覚めていくのを感じ、その方の進む道を応援したいと思う気持ちが湧いてきた。
セラピスト冥利に尽きることです。伝えてくださってありがとうございました。

みなさまにはセッションの後、どんどん身体を動かし、その可能性を見つけていく挑戦をぜひしてもらえたらと願います。

きっと新しい身体の可能性を見つけた時のアハ体験はキラキラと輝いているだろうから。

噛みごたえあり

まだ桜咲き始めの頃、東京のYeild練習会に参加してきました。

 

練習会でのセッション交換では講座で感じた自分の課題がより明確になり、それから生活の中での意識から段々見える景色が変わっていくのを感じながら自習しているような感覚で過ごしています。改めて没頭できる環境がありがたい。
そのセッションから肩甲骨の可動域がグッと広がり、今までと比べて左手の感覚が開き使いやすくなった感覚があります。

 

練習会後は韓国料理でランチをしながら似た領域、共通言語に新たな刺激と心強い安心感。
何気なしに差し出した言葉がすっと通じ、広がっていく会話は何よりの共感を生む。

 

その後、新宿御苑でのお花見にはYieldの師、田畑さんもいらっしゃり、
とても美味しいおしゃれスイーツと共にまた話に花が咲き、帰る時間が惜しく。

 

2月に参加したYieldの講座では学ぶものがとても多く、その咀嚼を2ヶ月が経った今でもしている。

 

「相手のスープの中で私が一緒に泳ぐことはできない」
「別々のスープの中にいるからこそ手を繋ぎ、支え合うことができる」

 

これは以前クラニオ仲間が教えてくれたクラニオバイオでの話。

 

講座初日に田畑さんの話を聞いていると、聞こえてくる話の裏側で何かが響き合い、パズルが合っていくような動きが私の脳内で起こって、この話が突然私の中で肚落ちした。

この時、田畑さんは特にこの話をしていたわけではないのだけれど、必要な学びが得られる場ではこういうことがよくある。

Wuotaiの師、ローランの話を聞いている時にも同じように私の中での答え合わせがどんどん進んで、私の身体は喜びに興奮し涙が出そうになったことが何度もあった。

Yieldの場でも怪しいかな、1人ニコニコしながらメモが止まらなかった。

 

根底に共通したテーマがある時、言外に場が共鳴しパズルが完成して一枚の絵になる。
そんな奇跡のような瞬間は、それまで森の中で試行錯誤していたことが報われるような、一瞬で目の前の霧が晴れるような体験だ。

その根底に共通したテーマが一枚の絵になる時、クラニオやWuotai、以前していたタイマッサージ などのジャンルの垣根の向こうで深まり、進むものが確かにある。

 

マットセッションでもベッドセッションでも、仕事でも日常でも、生きるということについての学びはアクションひとつひとつを最善最高に導いてくれる。

 

なんの気なしに高速バスで名古屋ー東京を移動してみたら、片道5時間半。
山々を眺めながらSAで地方のお土産を楽しみ、ボーッとし、本を読んで、うとうとして、とても贅沢な時間の過ごし方をさせてもらいました。
名古屋・静岡・東京の桜も楽しみ、3月末で閉店してしまった八重洲ブックセンターにも長年の感謝を込めてスライディングで赴くことができた、ちょっとした小旅行。

 

今夜から静岡に移動です。
静岡を離れて以後、ご理解いただきご予約いただけることありがたく思います。
そして、セッションのできる場を保ってもらえていること、重ねてありがたく感謝です。

セッション、楽しみにお待ちしています。

花って放って

春分の日にえいやっと静岡と名古屋の二拠点活動を始めました。

せっかくの節目。仕事場にも各部屋にもありがとうと言い、これかもまたよろしくと言って出発。

引越し一つ、人が1人移動するにも、手伝ってくださったり応援してくださった方々の手を取りありがたく。
1人じゃ何にもできないんだなと胸を温かくしています。

巷では春分の日から続く3日程がとても大きな節目の日とされていて、私自身も何かが切り替わるようで同時にまっさらな自分を感じるような日が続いていました。普段のルーティンの中では隠れてしまっていた奥にある自分の姿がふとした拍子に見えるような。

こんな節目の日には新しい目標を立てるといい、引き寄せたいものを願うといいという文言をよく見かけて改めて考えてみた。
と言いながら冬至から春分にかけては、新旧暦の新年に始まりたくさんの節目があってその度に考えてみているので頭で考える目標やなりたい自分はたくさんある。そこからカーテンをめくった奥にある一貫したテーマもみたいところ。

何を引き寄せたいか、ということも大事だけれど、引き寄せられるものは望むものが今在る器のサイズに再構築されたものだと感じる。

「どう在りたいか」を明確に、その上でしっかり望みたい。

自分の今いる世界との間をその在り方とで繋いでいられるように。

 

そして同時にこうした頭で掲げた在り方と実際に自分の何が変わったのか、行動をみるのがまた面白い。
情報や示唆が多い環境の中では気づきは過ぎるほどに生まれる。
では気づいた後、自分の行動の何が変わっているのか。
気づきに花が咲き、実になる時。なんだかふわっと微笑ましくて、子供はこんなふうに育っているのだろうかと思う。

名古屋で出張セッション。4年ぶりに受けてくださった方が
「よりマニアックになって・・・」とほくほく伝えてくださいました。
そうなんですよ、わかります?とこちらもほくほく。

3/30.31.4/1は静岡のセッションDAY。
それぞれにまだご予約枠は少しずつありますので、気になられている方はご連絡ください。


花曇りの続くこの季節、なんだか自分では思っているより動きに制限がかかりやすくなっている方もいらっしゃるかもしれませんね。思いっきり動くことをご自分に許可されてみては?

ー空間を通してplayするようにー

昨年、私にとっての心地よさの感覚が「満ちる」から「静か」へと変わった。

その時のブログにも書いたのだけれど、この心地よさのままの自分で居ることがセッションになればいいのに、と思っていた。


「触れない施術」という選択肢が生まれたからこその「触れる」ことの神聖さが改めて感じられもしていた。

 

Yielding Embodiment® Orchestrationという身体技法があることを知り、今回そのトレーニングに参加することができた。
ブログのタイトルは提唱者で講師である田畑浩良さんの言葉。

複雑に考えようと思えばいくらでも掘っていけそうな興味深い感覚と理論、そしてレシーバーの存在に対し、ありのままにしなやかな自分で居る。


自分の腹に吹く風の動きを

流れる水の巡りを

抗わず、感じながら、気付いている

 

そうしたプラクティショナー(ギバー)の開かれた在り様に受け手(レシーバー)は安心しその場に委ね変容のプロセスを辿ることができる

 

心地よい人のそばにいると心地よくなっていく。
心地よいスペースと程よい距離感があることで人は安心して自分で在ることができる。

 

身体が深い休息に入りより自然な方へと反応し動き出していくその様子は確かにボディワークであり、身体と感覚の変化から行動や心のあり方が変わってくるのは確かに内発的ソマティックなアプローチだった。

 

他の参加者の方々の質問力の高さに感嘆しきり、うんうん頷いていると自分の疑問は少し後から答えがやってきたり、自分の中から湧いてくるのでそれが面白く取っておいた。
その日の自分のテーマになることもあり、これも場全体が共振して起きていたことだと思う。



委ねることで外からポンと何かがやってくる。
委ねることも循環の中にある一つのアクション。


今自分のいるレイヤーで認知できないものは存在しないことになっている。
他者(プラクティショナー)の介在により、自分の枠の外側にある心地よさの提示を受けられたことで、これからの自分の行動が変わるだろうという確信に近い気づき。

世の中にはたくさんのメソッドや講座、知識が溢れていて私たちセラピストの大事な材料となっている。
その材料を仕入れることも大切だけれど、その先にある「どう在りたいか」を探求していく段階を今は大切にしたい。

今回のお供に連れ立ってくれたトム・ブラウン・ジュニアの「グランドファーザー」も隙間時間にしっくり示唆を与えてくれた。
私たちボディワーカーは、見えないものを見ようとしなくなった現代で、理論や実践を足掛かりに原始に還ろうとしているのかもしれない。

節分から立春にかけてのトレーニングの中で自分の中がシンプルになっていくのを感じせっかくなら目標を、と書いてみると「目に見えないものをカタチにしていく」と出てきた。

次のトレーニングも楽しみです。
ありがとうございました。

帰ってきたら春のようなお天気に、よき🌸

イールドとは?

言霊・読魂

よみだま、とでも言えばいいでしょうか。

言霊は辞書によると「ことばにやどると信じられた霊力。発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられていた」とある。

私は言葉が集積された本にも言霊とはまた違った力を感じる。

最近、オンラインで出会った方がべッセル・ヴァン・デア・コーク博士の「身体はトラウマを記憶する」を読んでいらっしゃるのに刺激を受けて、手持ちのソマティック関連の本をゆっくり読み返している。

読んでいると言葉が生き生きと身体に入ってくるよう。
書き留めた本の中の気になった言葉を眺めていると、ここ数年の自分の体験が蘇ってくる。買った当時は知識を食べるように読んでいたように思うが今は身体と呼びかけ合いながら読んでいる。時々くらくらするほど「そうそう!」と頷く内容があり、初めて見たのか覚えていないようなのだけれど、今だから意識の網に引っかかることができるのだろうなあと思うと五里霧中のように進んできたここ数年が新鮮に意味のあるものに思えてくる。

今、目の前に大海原が広がっていてその波打ち際にやっとたどり着いたような気持ちがしている。

目の前の海から人や本の言葉のギフトがここ数年の体験の答え合わせとして届いてくる。

5年前に手にしたこの本たちは、時に寄り道回り道に思えるような道程であってもしっかりと灯台となり、広く大きな道の道標となってくれていた。

嬉しいなあ、ありがたいなあ、こわいなあ、びっくりだなあ、申し訳ないなあ

安心感と満たされる気持ち、跳び上がるような嬉しさと宇宙の采配を現実に落とし込む実力の弱さに、こんな時こそ軸だぞと自分の肚に居ようとしている。

似ている、真似をしている、そんな感覚に陥るほど何か同じ流れのものを受信して「こっちだ!」と自分の領域で夢中にがんばれるのはありがたくとても心強い。

この受信の強さと巫女的な同調に自分のなさに悩むこともあるけれど、もうこれは自分の持って生まれた星だったり数字だったりの特性だということで自分の中でいいにしてもらっている。

言葉を自分のうちに溜め込んでおくことができないのも同じくメッセンジャー的な役割なのだともう黙っておくのは身体に悪いので出させてもらう。

その出し方を読んでくださる方、言葉を交わす方に受け取ってもらいやすいよう工夫できたらと思います。

ありがとうございます。