言霊・読魂

よみだま、とでも言えばいいでしょうか。

言霊は辞書によると「ことばにやどると信じられた霊力。発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられていた」とある。

私は言葉が集積された本にも言霊とはまた違った力を感じる。

最近、オンラインで出会った方がべッセル・ヴァン・デア・コーク博士の「身体はトラウマを記憶する」を読んでいらっしゃるのに刺激を受けて、手持ちのソマティック関連の本をゆっくり読み返している。

読んでいると言葉が生き生きと身体に入ってくるよう。
書き留めた本の中の気になった言葉を眺めていると、ここ数年の自分の体験が蘇ってくる。買った当時は知識を食べるように読んでいたように思うが今は身体と呼びかけ合いながら読んでいる。時々くらくらするほど「そうそう!」と頷く内容があり、初めて見たのか覚えていないようなのだけれど、今だから意識の網に引っかかることができるのだろうなあと思うと五里霧中のように進んできたここ数年が新鮮に意味のあるものに思えてくる。

今、目の前に大海原が広がっていてその波打ち際にやっとたどり着いたような気持ちがしている。

目の前の海から人や本の言葉のギフトがここ数年の体験の答え合わせとして届いてくる。

5年前に手にしたこの本たちは、時に寄り道回り道に思えるような道程であってもしっかりと灯台となり、広く大きな道の道標となってくれていた。

嬉しいなあ、ありがたいなあ、こわいなあ、びっくりだなあ、申し訳ないなあ

安心感と満たされる気持ち、跳び上がるような嬉しさと宇宙の采配を現実に落とし込む実力の弱さに、こんな時こそ軸だぞと自分の肚に居ようとしている。

似ている、真似をしている、そんな感覚に陥るほど何か同じ流れのものを受信して「こっちだ!」と自分の領域で夢中にがんばれるのはありがたくとても心強い。

この受信の強さと巫女的な同調に自分のなさに悩むこともあるけれど、もうこれは自分の持って生まれた星だったり数字だったりの特性だということで自分の中でいいにしてもらっている。

言葉を自分のうちに溜め込んでおくことができないのも同じくメッセンジャー的な役割なのだともう黙っておくのは身体に悪いので出させてもらう。

その出し方を読んでくださる方、言葉を交わす方に受け取ってもらいやすいよう工夫できたらと思います。

ありがとうございます。