WhyからHowへ

どのように生きたいか、そんなことを考えたことはありますか?

以前、ソマティックエナジェティクスというハワイ在住のDr.マイケル・マクブライド(マイケルはカイロプラクティックの提供者であり、米ではカイロプラティックドクターとなります)が提供するセッションを受けた時に、

「君の背骨はもう熟していたよ。充分すぎるほどに」

というメッセージをもらいました。

そのメッセージをもらう更に数年前にも静岡市でオステオパシーのかなり初期の施術をする珍しい治療院があるとのことでお勧めしてもらったので受けに行った時に、そこのご高齢の眼光鋭いおじいちゃん先生に

「脱皮しなさい」

と言われた言葉が忘れられずにずっと意識のすぐ取り出せるところの端っこの方にぶら下げてありました。

正直なところ、ピンと来ていなかった私です。ずっと取り出しては?と首を傾げて眺めていたのだけれど、最近になってやっとやっとどう生きたいのか実践して行きなさい、自分の人生を踏み出しなさい、と言われていたのだと繋がったのでした。

私は瞑想や心理学を自分の生活に取り入れはじめた頃から、これまでの自分の人生を振り返りながら理解しようと努めてきました。
それは”Why”と理由を探し、理解したのちに解決するための”正解”を実践する道のりだったように思います。
教科書に載っていたり導師たちの教えを守り則った生き方をしようとしていた。
さらに私は勉強が好きだったので、好奇心をアンテナに本当に様々な道に分け入って学びながら材料を揃えていっていたのですが、どこか自分の乗っかるレールを模索していたようでもありました。
計画したルーティンと頭にインプットした「したいこと」「するべきこと」「自分だと設定した自己像」の隙間から漏れてにじみ出るたゆみを律していました。求めていた自由はそこに抽出されていたというのに。

私は自分の生きる道はどこかにあると思っていたのかもしれません

その道のりで学んできたことは今私の糧となっているし、どうしよう?を考えるときの足場になってくれていて、今では必要なプロセスだったのだと思います。

そのプロセスを経て”How”、どのように歩むか。その一歩のあり方を正解に照らし合わせて決めるのではなく、生きたいと肚に居て叫ぶ生命の声を聴きながら未知に踏み出す一歩。

自分の歩む道はどこかにあるのではなく、自分の足元に。

何かに依ることなく、自分の足元を掘り起こし縁ってこさえる。足は地面に根を張り頭と仰ぐ両手は天に伸びる。

そこから出遇う人や出来事はみな、わかる人にとっては当たり前に思えることでも未知の上にある中では奇跡のように思いますし、生命をこの身に宿し生きる私たち一人ひとりが、この未知のギフトに満ちた道を自ら創造し歩むことができるのだと思います。

Whyのトンネルのなかにいる時は暗く長いトンネルを進んでいるように感じることもあるかもしれません
トンネルから抜け出て、どのように生きていきたいのか、そのためにどうするのか”How”へ踏み出す時、
蛹から蝶になる、蛇が脱皮してひとまわり大きくなる

そのイメージは成熟するということに通じていくように思います。

オステオパシーを学んでいた時に先生がよく「施術での変化は小さくなった洋服を大きいちょうどよい服に着替えること」という表現をされていました。
身体、という器を広げゆとりを作りながら、自分を生きるという道のりが険しい獣道から少しずつ歩きやすいように草が減りゴツゴツした石が取り除かれ、土が平らに固まり歩むその先に、陽のあたる縁側が見えるといい。

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