介入ではなく介在(鬼太郎アンテナよりはサンマのキモチで)

2月に、イールドワーク認定基礎研修を受けてきていました


研修のノートはまとめる時と見返す時とでは気づきの角度や深度は当たり前ながら変わります。

今回、初日に師のデモンストレーションを受ける機会がありました。
以前は参加者に囲まれてフィードバックを返しながら師のデモを受けるなんて絶対できないと思っていたのだけれど、なんだかするっと自然に促され受けることができました。

仰向けでデモがスタートすると、まず足先からの反応があり、そのうちに身体の真ん中が受け皿になったような感覚から胸椎の反応が立ち上がって、背骨のプロセスが進んでいるように感じました。


その最中の私のフィードバック
「焼き魚のキモチ」。。。
サンマの塩焼きのあの背骨のイメージが浮かんでいました。


日常において過敏に反応を続けることで内側の安定を保とうとする働きは、変容の場においての受容的な状態と真逆な性質を持つように思います。

3日間の研修の中で、私自身のテーマのプロセスが進んでいくことがあります。
前回の1年前は

相手のスープにも自分のスープにも飛び込まない・泳がない・気付き続けている。
自分のストーリー(スープの具)に共感することを欲する段階もあるけれど、同調つまり同じスープの中で泳ぐ、浸るのとは違う。

という気づきのプロセスが講座中、直接関係ない話を聴きながら立ち上がり進んでいったのだけれど、今回は

自分の領域を守るということは
身体の中に湖があるとした時に、その水面を凪いだ状態に保つこと

というイメージが直接関係のない話を聴きながら、身体の中に広がっていきました。
もしかするとダイアグラム(隔膜)をテーマにした講座内容で、
隔膜(横隔膜、骨盤隔膜、口腔底、胸郭出口、小脳テント)はいずれも体内を横切る形で存在するがゆえに、私の中で湖としてイメージが連なったのかもしれません。

身近な人や大切な人と関わるほどにその人たちのイメージを自分の内部に引き込んでしまうことはよくあることです。
どちらか一方の内面が波立っていている時には、一方が助け、もう一方は助けられる関係にあること。逆にどちらか一方がトラブルを持ち込み、もう一方が持ち込まれるかもしれません。
自分も相手も波立っている状態ではその関係に平穏はなく、サバイバル状態の闘う・逃げる・凍りつくのいずれかの選択を常に迫られる緊迫した状態になっているかもしれません。

他者との心地よい関わりは、自分の内側の水面と他者の水面が凪いだ状態でいられるような工夫と創意の元にあるのではないかと文章を書きながら思います。



講座ではイールドワークを行うプラクティショナーの重心を探求する際、クラニオの重心やそれぞれの技法における世界観の違いなども話がのぼり、それぞれの理解がさらに深まったように思います。

今回の学びもまだ消化できずに数年後にはたと気づくこともあるでしょう。

また講座中、子供の頃の視界から景色を見ているような感覚になり、大人になったことに気づいたような、未来と過去が同時にある「今」に立っているような時間がありました。

視覚・聴覚の感覚が纏まって入り、感覚がフラットになることで優先順位が変わるような。

研修中の3日間、それぞれにプロセスやリリースが進んでいましたが大きな混乱にならなかったのは、師が保つホールドの中で参加者みんなが分厚く立ち上げた場の力だと思います。

身体の感覚が変わることで心に映る景色、思い浮かぶことが変わる。それは決して気のせいやその場限りのインスタントなものではなくて、私たちの身体の内部で起こっている最善に生きようとする働きなのだと思います。